2011年 04月 24日
思い出 |
行方不明者探しはまだ続くなか、本格的な瓦礫撤去もはじまり、立ち入り許可証をもらわないと自分の家まで行けない。家に帰ったつもりなのだけれど、変わってしまった景色は何度見ても慣れなくて、一旦かならず呆然として。ひと気のない静まりかえった街並みにブルトーザーの工事中のような大きな音だけがひびきわたっています。
お母さん、私はあなたになんて声をかけてあげたらいいの?
瓦礫の山から、いまも思い出を拾い集めて、泥を洗い流して、赤旗をあげる仕度をする主人の父と母。ふたりが建てた小さな家は主人の成長に合わせて少しずつ大きくなって、私がお嫁にいったときにはその二階に暮らしていて。退職したときには念願の広々としたりっぱなサンルームも増やして、こつこつとあためてきた母屋。私と主人は帰宅後まず、母屋で食事をしながら、翌日のランチで使う野菜の収穫を父にお願いするのが日課でした。
夕食でいつも使っていたお皿のかけらを道端で見つけたとき、思い出を探すのは私はいやだと思いました。
あれから1ヶ月半がすぎたのですが、私だけまだ母屋に入れずにいます。土足で入るのがいや、そして、楽しくて生き生きとしていた日々が止まってしまった現実を見るのがいやで。
でも、赤旗は、もう、完全に取り壊していいですよというサイン。その前にみておかなければならいのかもしれません。近所でも少しずつ見かけるようになってきた赤い旗を父母がたてるとき、どれほどの悔しい思いを乗り越えるのだろうか。私も悔しくて、悲しくて、やりきれません。この残酷な景色とノワイヨの往復は、私にとっては天国と地獄の行き来をしているかのようで、どちらが現実なのかわからなくなるのが正直な気持ちです。
被災地では、復興なんて、これからなんて、まだ、はじまっていません。
これまでの思い出を壊されてしまう前にかき集めているところです。もちろん、建物が少しも残っていない人や家族の命を奪われた人たちは、それさえも、できない。ほんとうは立ち止まったままなのです。
避難所での生活もそろそろ限界のようです。ここからは人それぞれの道を歩くのでしょう。もう慣れてしまったという人もいます。お金がないけれど自分で隣町に仮住まいのアパートを借りる人もいます。もう海の近くはいやだと早々に別の街へ引っ越した人もたくさんいます。
うちの近所も亡くなったり、引っ越したりで、ほとんどがいなくなりました。
さっきまで庭先で、津波が来るんだって、どうする?避難する?大丈夫じゃない?って日常会話のように話していたのに。
やっぱり、日常というものは、もろいものです。日常の意味もわからなくなりました。
私はこうして被災地で感じる被災者としてのほんとうの気持ちを書くことに、葛藤がないわけではありません。だけど、この残酷な景色はいま現在のもの。TVでは復興ムードにあふれる映像が多くなってきているし、それに、報道も少なくなってきている。やがて1年もしないうちに忘れられてしまうのではないだろうかといういやな予感がしてしまって。
少しでも多くの人に手助けが持続されることを願っての思いで書き綴っています。
すぐそばにいるお客様と友人と知人の助けと支えをたくさんいただいているおかげで、私自身は、じつは大丈夫です。そのように理解していただきながら今後の被災地状況はお読みいただけたら幸いです。
by noyau-f
| 2011-04-24 21:50
| 東日本大震災の日から