2011年 07月 11日
過酷な旅へ |
きょうで大震災から4ヶ月が過ぎました。生活するということがこんなに、ひとつひとつ時間と手間のかかることだとは、わざわざ感じることなんてなく生きていたなあと思わされます。
いま、私は危険区域となった自宅を離れ、仙台に一時的に仮住まいしていますが、お風呂と洗濯機のない暮らしをしています。毎日、湯船につかれることの幸せ、晴れた日にお洗濯できることの幸せ。こんなことは、あの日まで思わなかったのだから。あたりまえのことから遮断されたいま、あたりまえのことがとても愛しい。4ヶ月経っても、あの日までのふつうの暮らしとはお別れしたままなので、今の暮らしが私の新しい人生ということになるのでしょう。
この暮らしを楽しむことができるのは、植物療法や自然療法を学んだり、人間は自然の一部であることを知り理解することができた私のこれまでの人生があったからこそ。食材が買えなくともあわてない、あるものを美味しく。お風呂に入れなくともあわてない、ハーブの香りいっぱいの足浴ですっきり。
でも、被災した人みんなが楽しめているのではないことをやっぱり知ってもらわなければなりません。連日の暑さに避難所や仮設住宅で体調を崩す人がたくさんいます。仕事も失ってしまったことから心の病に襲われてしまっている人もいます。これ以上犠牲者を出さないためには、どうすればいいのか。大きな大きな力が必要であることを、きっと誰もが知っているはずなのに、その力は形になっていません。まったく届きません。
この過酷な旅はまだまだ続きます。支援や取材に来て、現地のたいへんさをまのあたりにしたとしても、家に帰ってふつうの暮らしに戻れる場合はこの過酷さをほんとうに思うことはできないはずです。私でさえ、仙台にいるときは被災のことを忘れているのですから。
助けを求めている人たちがいることを忘れないように、何かいい方法を考えましょう。節電とかエコとか、またブームになっていますが、もうブーム化するのはやめてもらいたいものです。ブームになることは繰り返しているだけで持続しません。40年前から何度エコブームがやってきたかふりかえってみてください。
節電に気をとられている場合ではないです。そんなことはテレビなどで大騒ぎすることではなく、個人で、センスで、黙ってすることです。
人ひとりの命を救うことのほうが、いそがれると思うのです。いつも、思います。これからますます死者が増えてしまうではないかと。
絶望から希望へ踏み出すのは自力ではほんとうにほんとうにたいへんなことです。それでも、先に踏み出した人々は、とてもパワフルに見えるけれど、いま、過酷な旅の真っ最中でしょう。口に出して言わないけれど、苦しみをごくんとのみ込んで歩いています。
テレビや政府の情報ばかりにまどわされないで、ほんとうに必要なことを自分のセオリーとする自由な生き方。情報社会のせいで失われた生き方のひとつではないでしょうか。
節電ってなに?
冷えすぎたら身体にわるいからエアコンの温度は下げすぎないようにするのは自分の感覚で。デパートやスーパー、電車のように過度に冷やしすぎていたところは節電すべき。
電気は蛍光灯ががんがんキラキラしているより、間接照明とキャンドルの灯りのほうが自然な眠りのためにもいいし、雰囲気もよい、これはセンスの問題では。コンビニやスーパーの真っ白な灯りがおしゃれと思う人はいないはず。不必要に明るくしているのはやっぱり企業ですね。
節電するべきなのは一般家庭ではなく企業です。そして、センス(感覚)よく暮らしている人は、ごく自然に不必要な電気を使っていません。
例えばノワイヨではずっと、炊飯器や電子ジャー、掃除機を使っていないのですが、これは節電ではなく、感覚的に嫌いだからという理由です。
節電ブームに気をとられて、がまんしすぎて熱中症になりませんように。これは自分の感覚を無視した結果です。情報のいいなりになるのはとても危険です。
今日は、いっぱい語ってしまいました。
先日のブログで自分の自宅についてのネガティブなことを綴るのをもうやめようと書いたら、ほんとうの気持ちを書き続けてほしいというメールをいくつかいただきました。送ってくださった皆さまありがとうございます。私の個人的な話や考え方が何かの役に立つのであれば、そうしたいと思います。正直に発言してみようと思います。
いま、私は危険区域となった自宅を離れ、仙台に一時的に仮住まいしていますが、お風呂と洗濯機のない暮らしをしています。毎日、湯船につかれることの幸せ、晴れた日にお洗濯できることの幸せ。こんなことは、あの日まで思わなかったのだから。あたりまえのことから遮断されたいま、あたりまえのことがとても愛しい。4ヶ月経っても、あの日までのふつうの暮らしとはお別れしたままなので、今の暮らしが私の新しい人生ということになるのでしょう。
この暮らしを楽しむことができるのは、植物療法や自然療法を学んだり、人間は自然の一部であることを知り理解することができた私のこれまでの人生があったからこそ。食材が買えなくともあわてない、あるものを美味しく。お風呂に入れなくともあわてない、ハーブの香りいっぱいの足浴ですっきり。
でも、被災した人みんなが楽しめているのではないことをやっぱり知ってもらわなければなりません。連日の暑さに避難所や仮設住宅で体調を崩す人がたくさんいます。仕事も失ってしまったことから心の病に襲われてしまっている人もいます。これ以上犠牲者を出さないためには、どうすればいいのか。大きな大きな力が必要であることを、きっと誰もが知っているはずなのに、その力は形になっていません。まったく届きません。
この過酷な旅はまだまだ続きます。支援や取材に来て、現地のたいへんさをまのあたりにしたとしても、家に帰ってふつうの暮らしに戻れる場合はこの過酷さをほんとうに思うことはできないはずです。私でさえ、仙台にいるときは被災のことを忘れているのですから。
助けを求めている人たちがいることを忘れないように、何かいい方法を考えましょう。節電とかエコとか、またブームになっていますが、もうブーム化するのはやめてもらいたいものです。ブームになることは繰り返しているだけで持続しません。40年前から何度エコブームがやってきたかふりかえってみてください。
節電に気をとられている場合ではないです。そんなことはテレビなどで大騒ぎすることではなく、個人で、センスで、黙ってすることです。
人ひとりの命を救うことのほうが、いそがれると思うのです。いつも、思います。これからますます死者が増えてしまうではないかと。
絶望から希望へ踏み出すのは自力ではほんとうにほんとうにたいへんなことです。それでも、先に踏み出した人々は、とてもパワフルに見えるけれど、いま、過酷な旅の真っ最中でしょう。口に出して言わないけれど、苦しみをごくんとのみ込んで歩いています。
テレビや政府の情報ばかりにまどわされないで、ほんとうに必要なことを自分のセオリーとする自由な生き方。情報社会のせいで失われた生き方のひとつではないでしょうか。
節電ってなに?
冷えすぎたら身体にわるいからエアコンの温度は下げすぎないようにするのは自分の感覚で。デパートやスーパー、電車のように過度に冷やしすぎていたところは節電すべき。
電気は蛍光灯ががんがんキラキラしているより、間接照明とキャンドルの灯りのほうが自然な眠りのためにもいいし、雰囲気もよい、これはセンスの問題では。コンビニやスーパーの真っ白な灯りがおしゃれと思う人はいないはず。不必要に明るくしているのはやっぱり企業ですね。
節電するべきなのは一般家庭ではなく企業です。そして、センス(感覚)よく暮らしている人は、ごく自然に不必要な電気を使っていません。
例えばノワイヨではずっと、炊飯器や電子ジャー、掃除機を使っていないのですが、これは節電ではなく、感覚的に嫌いだからという理由です。
節電ブームに気をとられて、がまんしすぎて熱中症になりませんように。これは自分の感覚を無視した結果です。情報のいいなりになるのはとても危険です。
今日は、いっぱい語ってしまいました。
先日のブログで自分の自宅についてのネガティブなことを綴るのをもうやめようと書いたら、ほんとうの気持ちを書き続けてほしいというメールをいくつかいただきました。送ってくださった皆さまありがとうございます。私の個人的な話や考え方が何かの役に立つのであれば、そうしたいと思います。正直に発言してみようと思います。
by noyau-f
| 2011-07-11 19:00
| 東日本大震災の日から